ポーランド旅行:5日目〜絶滅収容所。


ホテルのロビーで現地ガイドさんと待ち合わせ。「よろしくお願いします。」「じゃあ行きましょう。」という感じで、アウシュビッツへ向かうバスに乗るために、ターミナルまで歩く。駅のショッピングモールを抜けていけば近いんだけど、今日は憲法記念日で休みだから大きく迂回する。

オフィチエンチム行きのバス。アウシュビッツというのはオフィチエンチムのドイツ読みというのか、似た音を当てはめたのか、とにかくドイツ語なのだ。運転手はまだ来ていない。それにしても古いバス。ナンバープレートもいわゆるユーロナンバーじゃなくて黒地に白の文字。ガイドさんによると「古い」とのこと(笑) バスの乗車券はガイドさんがあらかじめ用意してくれてあるから楽ちん。

古いけどエアコンも効いてたし、運転もうまくて快適だった。これはアウシュビッツ行きの専用バスじゃなくて、普通の路線バスなんだねー。約1時間半後、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所に到着。1ズォティ払ってトイレを済ませたら、日本人のガイドさんに交代。

「今日はいつもより空いてます。」なんて話を聞きながら歩いて行くと、あの有名な門が目の前に。ダッハウと同じ、「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」のスローガンが書かれた看板。実際にはこの門をくぐったら出口は煙突しかないのだ。「B」の文字が逆さまなのは、これを作らされた囚人のささやかな抵抗の証。実はこの看板、2009年に盗難に遭って3つに切断されてしまい、今のこれはレプリカとのこと。

当時の建物の一部はそのまま博物館として公開されている。ヨーロッパ中・・・遠くはローマやパリなんかから集められた人たちは、強制収容所という名前とは裏腹に、職業や思想・宗教などで選別されて、大半が収容されることなく即ガス室に送られた。そのほとんどは労働力にならない女性や子供・老人で、そのほかに障害者・同性愛者・いわゆるジプシーなど。記録が残されていないから正確な数字は不明。

利用できるものは徹底的に利用するというポリシーの元、ガス室に送られる前に、持ってきた家財道具はもちろん、毛髪や眼鏡・義足・靴や鞄も全部没収。

鞄に名前が書いてあるのは信用させるため。でも、持ち主のところに返ることはなかった。毛髪なんかは織物として出荷してたみたい。もちろん買う方はそれがなんだか知らないまま。

そういった諸々はすべて囚人によって行われていて、ドイツ人は書類上の数字を見るだけでいいというシステム。囚人は階級の設定や相互の監視によって、反抗するための組織を作らせないようにコントロールされていたらしい。

壁には収容された人の写真。縦縞の囚人服。いつここに来ていつ亡くなったのかが書かれていて、短い人は数週間から1ヶ月。

収容棟内の様子。初期は床にわらを敷いただけだったものが、収容人数が増えていくと木製のベッドみたいなものが作られていく。1段に2〜3人くらい収容されていた。

地下にある、牢屋や死刑のための施設へ。説明を聞いて当時がどんなだったか想像するのを意識的に避けるくらいイヤな気持ちだった。身代わりで死刑になった神父がいたところは、ヨハネ・パウロ2世がミサをしたということで、大きなろうそくが3本立てられていた。カトリック教徒ではないけれど、ちょっとだけ救われた気分。これが聖人の力なのか?

外へ出る。男性棟と女性棟を分けていたり、脱走防止のために張り巡らされた有刺鉄線。高圧電流が流されていて、自殺する人もいた。収容所なのに計画的に植樹されていたりして、有刺鉄線がなければ本当にいい場所に見える。

死の壁。銃殺刑が行われていた場所。今でも献花が絶えることはなく、日本の千羽鶴も供えられていた。ほかにも見せしめのための絞首台等々、写真を撮るのがイヤになってきた。

アウシュビッツ最後はガス室。ここに裸で詰め込まれると、天井の穴からチクロンBという殺虫剤の缶が投入される。

殺虫剤そのものの毒ではなく窒息死だったとか。殺虫剤を使うというあたりに、なんだかいやらしさを感じる。

そして火葬・・・というか焼却炉。とにかく効率よくということに主眼が置かれて設計されている。すぐ横に、収容所の所長が住んでいたという建物がある。

ここで無料のバスに乗って、ビルケナウへ移動。アウシュビッツが第一強制収容所で、その隣のビルケナウは第二強制収容所。アウシュビッツよりももっと広い。それでも手狭だったというんだから、想像すらできない。

入り口の死の門にはキャッチフレーズすらなく、運ばれてきた人たちは貨車から降りるとすぐに選別されて、やはり多くはガス室へ。貨車やいろんなところの碑に石がのせられてるのは、ユダヤ教の人たちによるもの。

有名なまっすぐの線路。もちろんもう使われてないけど、門の外側は今の線路とつながってるみたい。

当初は煉瓦造りだった収容棟も、ドイツの戦況悪化で木造になり、今は暖炉部分しか残っていないものが大半。収容所が開放されたのが1月だったから、暖を取るために壊してしまったらしい。そもそもここは湿地で地盤が良くないから、煉瓦の建物も倒れないように棒で押さえてるのもある。

線路の終点には犠牲になった人たちの国別の慰霊碑と、その両側にはクレマトリウムと呼ばれるガス室を含んだ大きな施設の跡。ドイツ軍が撤退するときに証拠隠滅で破壊したそのまま。これはユダヤ教の人たちの意思を尊重してこうなっている。

遙か彼方に見える死の門まで歩いて戻りながら、どうしてこんな事が起きたのかをちょっとだけ考える。いろいろがうまく行かない理由を誰かのせいにしたり、あるいは憂さ晴らし的に何かに当たったりとか、そういう部分と民族主義的な考え方が重なったのかな? 今また景気の悪い時代だから、似たような雰囲気があるかもしれない。

最後に木造の収容棟に入る。下はむき出しの地面。冬場はマイナス25℃にもなるところでこれは・・・。丸い穴はトイレ。バスでアウシュビッツに戻ってガイドツアー終了。

朝のガイドさんに交代して、道路の反対側にあるレストランでお昼。憲法記念日なのにここは営業中。ポーランドのレストランではまず飲み物の注文を取りに来る。ガイドさんおすすめの、黒すぐりジュース。酸っぱすぎず・甘すぎず・えぐすぎず、これはおいしかった。日本でも売って欲しい。

ピエロギやポーランド風ロールキャベツでお腹いっぱい。ここも結構な量だった。

クラクフ行きのバスで朝のターミナルまで戻る。バスは新しかったけど、エアコン無しで運転もかなり荒くて参った。歩き疲れて眠いのに寝ていられない(笑) ガイドさんにホテルまで送ってもらってお別れ。

本当はこの後お土産を買う予定だったのに…ワルシャワのガイドさんから、とにかく全部休みだという話を聞いておいてよかった~。

だがしかし、夕飯にも困って、駅の近くで必ず売ってるなんか丸いやつと、またまたケバブ屋でケバブサンドを買ってホテルに戻る。この丸いやつはあごが疲れるくらい硬いのなんのって。

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